五十五.
それは、柔らかな日差しの降りる、冬の終わりのある日の事。庭に積もった雪が、暖かな日差しに溶かされて、きらきらと輝いていた。
「ここから見ても、眩しいわね」
椿は目を細め、側に控えた安芸に声をかけた。
「本当に。そろそろ庭の椿も開きそうですわ」
ふふ、と笑んで答える。
「見る人があたくし達だけなのが、もったいないわね」
そうして微笑みあっていると、簀子を歩いてくる気配がする。
「やぁ、僕も見てるよ」
「あら、兄上」
「やっぱり椿の庭は見事だねぇ。僕の方なんか風情がなくて」
にこにこといつもの調子で供も連れずにやってくると、御簾をくぐって几帳の前に腰を下ろした。
「兄上もお忙しいんですもの。庭まで行き届かなくても仕方ありませんわ」
以前は右馬の頭を勤めていた兄は、去年の春に出世して、今は右中弁として忙しそうにしている。
「忙しいのは周りの人だよ。僕なんか何にもしないで祭り上げられてる感じだけど」
「まぁ」
馬鹿正直に打ち明けて、舌を出している兄を見て、つい椿も笑ってしまった。
あの、春宮妃入内を目前に、椿が髪を切ってから、もう二度目の冬を越そうとしている。……あれから、二年経つのだ。胸の辺りで途切れていた椿の髪も、今では腰まで伸びている。
「……。彼は……、本当に、忙しそうにしてるけど」
兄と同じく去年の春に、隆文は出世した。春宮も予見していたとおり、五位蔵人となったのだ。しかしそれもこうして兄から伝え聞いただけで、直接のやり取りは無い。実の妹である安芸も、隆文との連絡は一切許されないままだ。
「あの……高成さま。兄は、元気でしょうか……」
「うん。いつも暗い顔してるけど、まぁいつもの事だから元気なんじゃないかな」
「ま」
「そこがまた『影があっていい』らし……とと」
兄は言いかけて、慌てて口元を押さえた。宮中の女房達が噂でもしているのだろう。椿は微笑んだ。それは右大臣邸に居た頃から変わらない。
「あ……と、そうそう、今度、春宮のところの宣耀殿様、二人目ご懐妊だって」
兄は慌てた口調で話題を変えた。
「宣耀殿様は、たしか椿も面識あったろう?」
「ええ……まぁ、おめでたいお話ですわね」
「うん、それで、今度こそ春宮は姉上のところの幸孝親王に春宮位をお譲りになるんだって。お生まれになるのがもし男皇子だったら、またややこしい事になるだろ? だから譲るって言ってるらしいんだけど……実際のとこ、女御を里下がりさせて離れ離れになるのが嫌で、ご自分も御所を出てついていく為だって噂だけど」
「まぁ」
「ほんと、ご寵愛もあそこまで行くと皆呆れるばかりだよ……もう誰も止められないね、あれは」
「まぁ兄上、恐れ多いですわ」
仮にも春宮をそのように言うのを咎めようとすると、兄はぺろっと舌を出して、悪戯っぽく笑った。
「あはは、羨ましい話だよね」
兄が笑うのにつられて笑いあっていると、女房の足音が近づいてきた。
「あら、どなたでしょう。見てまいりますわ」
安芸が簀子の方へ出てゆき、直ぐに戻ってくる。
「姫さま、高成さま、お殿様(右大臣)の先触れです。じきにお殿様がお見えになるそうですわ」
「えっ」
もう父と対面したのは何ヶ月前の頃だろう、いや、最後に話したのが兄の昇進の話だったから、もう一年以上も経つのかもしれない。
「席をつくりますわ。少し、動いていただけますか」
安芸に言われるまま、椿は奥の几帳の影にずれて、上座に席が設けられた。
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