五十六.



 久方ぶりに見た父の姿は、以前と変わりなく落ち着いていて優しげで、椿はホッとした。

「……久しぶりだね、椿。長らく訪ねもせず、悪い事をした。あぁ、高成もいるのか」

「ごきげんよう、父上」

「父上さま……ご機嫌麗しく、なによりですわ」

 父はいつもどおりの落ち着いた物腰で、几帳を隔てた上座に座ると、引き連れてきた女房達も傍らに侍らせた。

「二年か……髪はだいぶ、伸びたかね」

「まぁ……まだ恥ずかしい長さですけれど、以前よりは」

「そうか……あの姿を見たときは……私も辛い思いをしたものだが」

 ちくりと胸が痛む。あの時の、傷ついた顔の父が思い出された。

「もう、二年だ。お前の身の振り方も、そろそろ考えねばならんな。この邸にずっと引き篭もっているには、お前はまだ若い。しかし……今更お前に求婚しようという公達もあらわれぬし、困ったものだよ」

「……」

 椿は世間向き、入内を前に病に倒れ、後宮を退出して以来ずっと、病に伏している事になっている。入内を控えていた身であり、病床ともなれば、求婚者が現れないのも当然の事だった。

「……何人かの公達に、お前の様子を聞かれる事もあったが……病で臥せっていると言っておいたから、求婚者がないのも当然のことかもしれんが。……先日は主上にも、姫はどうしているかと尋ねられてね。……決して不幸にさせる事の無いようにと……」

「……主上が……」

 なんと恐れおおく、勿体無い事か。椿の罪を許すだけでなく、案じてくれてさえいるのだ。

「大切な弘徽殿の妹姫なのだからとおっしゃられて。……本当に、ありがたいことだね、椿」

「……はい」

「……主上にまでもこうして案じていただいているのでは……私ももう、折れぬ訳にも行かぬと思う」

「……え?」

 父大臣が控えた女房に目配せすると、女房は重ねられた文箱を、椿の前に差し出した。見れば女房達は皆文箱を手にしていて、次々と椿の前に並べて行く。

 椿は唖然としてそれを眺めた。

「あの……父上さま、これは……」

「開けなさい」

 椿は一番手前のそれに手を伸ばして、中の文を取り出した。薄い水色の文に、紫、黄……桃……。色とりどりの文から一つ取り出して、広げてみる。

「これは……」

――逢ふことは 雲居はるかに なる神の 音に聞きつつ 恋ひ渡るかな

(逢う事は、雲のかなたを目指すような事ですが、雷の音を聞くように、貴女の噂を聞くにつけ、恋しさが募るのです)

 見知った文字の、恋の歌。

 椿ははっとして、他の文にも手を伸ばした。

――夕暮れは 雲のはたてに 物ぞ思ふ 天つ空なる 人を恋ふとて

(夕暮れには、雲の果てを見ながら物思いに耽っています。あの空のように手の届かないあの人が、恋しくて)

 どれも、これも。

 全ての文箱を開けた時には、文は山のように椿の前に積み上げられていた。

「あ、あぁ……」

(隆文……!)

 椿は文を掻き抱くようにして、父を見た。

「ち、父上さま、これは、……これは」

「うん。……彼が五位になってからの事だけどね。……私に、寄越すんだよ。始めは撥ね付けていたのだが、……根負けして、一度、受け取ったのだ。……それからは、もう毎日規則正しく私に寄越すのだから、私も、ほとほと困っている。……それで、まぁ……、もう良いから、私ではなく届けたい姫に直接おくっても良いからと、今日、言ってやったのだ」

「……!」

「まったく……不本意ではあるのだが……まぁ、仕方あるまい」

「父上……さま」

 父はふぅっと大きくため息をついた。

「私の負けだよ、椿」

「やったぁ、椿!」

 兄は手を叩かんばかりに顔を輝かせて喜んでいる。

「姫さま……!」

 安芸はもう大粒の涙で頬を濡らしていた。

「安芸にも、すまない事をしてしまったね。まぁ、そういう訳だから、お前ももう文を交わすなり会いに行くなり、好きにしていいよ」

「あぁ……ありがとうございます、お殿様」

 安芸は拝むように胸の前で手を合わせた。

 椿はまだ夢を見ているような心地で、ただ目の前の文をじっと見つめた――。



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