七.



 夏が来て、秋が来て、冬が来て……また、春が来て。椿は十歳を迎えた。まだ外は寒く、梅のつぼみが膨らみ始めた季節である。自分の名である椿の花も、見事に咲き誇っていた。

 だんだんと暖かくなる兆しが見られるこの季節が、椿は大好きだった――はずだった。いつもなら。

「絶対に嫌よっ!!」

 椿は布団を引き被り、部屋の隅に縮こまった。円座に座った右大臣がやれやれとため息を零す。

「……そんなに嫌がらなくっても……、きっと一目見たら気に入るはずだよ。時平親王はそれはお美しい御子でらしてなぁ」

「そんなの関係ないわっ! あたくしは春宮妃になるんだって、父上さまも言っていたじゃない!」

「……しかしなぁ、春宮のところには既に咲子がいっているし……姉妹で寵を競うというのは嫌なものだよ?」

「どうして!? あたくし、お姉さまとは仲良しだもの! 何も嫌なことなんてないもの……っ」

 椿はずっと、自分は春宮妃になるものと思っていた。いつか見た姉と同じように、長い車の列に運ばれて、華やかな随身たちとともに、後宮へ向かうと信じていたのだ。

 それが突然、春宮の弟宮である時平親王への添い伏しの話が持ち上がったのである。添い伏しと言うのは、高貴な身の御子が元服された夜に添い寝する役目で、つまりそのまま結婚と同義であった。

「今は良くても……そのうちきっと嫌な思いをする事になるよ。それよりも、年も近い親王さまの方が……」

「嫌……っ」

 椿は激しく首を振った。ずっと春宮妃になるものと思っていた。なれないのなら。……どうせなれないのなら、椿はまだこのままでいたかった。まだ、このままこの家で、安芸と、……隆文と。いくらなんでも結婚は、早すぎる。姉の咲子姫が入内したのだって、十四の歳だったはずだ。

「ふむ、しかし……このお話は帝がご提案されたものなのだよ。この意味が分かるかい? ……よくよく考えておきなさい」

 右大臣はなだめる様に布団の上からぽんぽんと椿の頭を撫でて、部屋を出ていった。

「……っ」

 右大臣の足音が遠ざかると、椿はばっと布団を払い除け、両の手を床に突いた。

「姫さま……? お顔の色が……」

 安芸が心配そうに見つめている。椿は顔から血の気がひいていた。

「帝からの、お話だなんて……」

 もうそれでは、この話はほとんど決まったようなものだ。父右大臣はよく考えなさいなどと言ってはいたが、それは気持ちを落ち着ける為の時間を与えられただけのこと。

(……もう、決まっちゃったんだわ)

 酷いめまいに襲われる。

「あたくし……、この家で親王さまを……婿君を迎えてしまうんだわ……」

 自分で言いながら、椿はどこか他人事のような気がしていた。



 どんなに嫌だと思っていても、椿にはどうすることも出来なかった。時間だけはあっという間に過ぎていき、椿はとうとう裳着の日を迎えてしまった。親王の元服の日取りはまだ決定していないという話だが、それに先立っての裳着だった。

 名門貴族の姫君ともなれば、政略結婚はごくごく当たり前の事。受け入れなければならない事と、椿は良く知っている。

(……でもまだ、御文だって貰ってないのに)

 ただ父右大臣から話を聞かされるだけで、親王からは何の言葉も文も届けられはしなかったのだ。

 その日椿は、たくさんの女房に囲まれて、華やかで美しい、重たい衣装を着せられた。寝殿の方もやかましく、女房達も浮き足立って、邸全体が落ち着かなかった。

 夜になれば、腰結役(こしゆいやく:裳を腰に結ぶ役)の祖父・太政大臣がやって来て、裳着の儀式が執り行われる。そうしたらもう、一人前の女性になるのだ。椿は衣装を着終えると、女房達を遠ざけ、安芸にも下るように命じて、一人物思いに耽った。ぼんやりと脇息にもたれていると、

「椿、ご機嫌はどうだね」

 右大臣が心配そうな面持ちで椿の様子を伺いにやって来た。

「……」

 椿は脇息にもたれて顔を伏せたまま、じっと動かなかった。

「お前は習字も琴も人並み以上に出来るし、何処へ出しても恥ずかしく無いと、父は思っているんだよ」

 習字も琴も、春宮妃になるには必須だからと、姉の真似事をして練習しただけ。

「……」

 着せられた衣装が重たくて、椿は返事を返すのも億劫だった。

「椿や。これ、顔を上げなさい」

「……」

「……やはり、早過ぎたのかなぁ……。……いいかい、今日はお祖父さまもお見えになるし……」

「大丈夫。裳着の時は、ちゃんとするもの」

 父が言い終わらないうちに、椿は顔を伏せたまま、そっけなく答えた。長いため息が聞こえる。

「……時平親王の元服の夜には、そんな態度をしてはいけないよ」

「……っ」

 ではどんな態度をしろというのだろう。椿はもう何も考えたくなかった。どうせ運命に流されるのなら、もう何も考えずに流されてしまいたい。

「椿や……」

 困った風情の父の声が、なんだかやけに耳に障った。ずっと無視を決め込んでいると、やがて諦めたのか、父は立ち上がって出て行くようだった。妻戸のところまで行って、誰かの気配と重なって立ち止まる。

「おや、隆文か」

「!」

 椿ははっとして、伏せた姿勢のまま目を見開いた。

「……姫君がお呼びとの事で、参りました」

 低い声が涼しげに答えている。

「ふむ。……まぁ、これで最後だ。良いだろう。……ご機嫌が悪いようだし、せいぜい慰めてやってくれ」

 父右大臣の気配は遠ざかっていった。入れ替わりに、若い公達の気配が近づく。

「……あたくし……、呼んでないわ……」

 少し顔を持ち上げて、視線を上げる。僅かに眉を寄せ、怒っているのか悲しんでいるのか、神妙な面持ちの隆文が、そこに立っていた。



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