八.
「ご気分が……優れないようですね」
言いながら、隆文は腰を降ろした。椿の心がこんなにも沈んでいるというのに、隆文の仕草は優雅で美しかった。
「……良い訳がないじゃないっ」
冷たい口調で言って、脇息に突っ伏す。八つ当たりだと分かっていても、椿には止められなかった。
「……姫……。私は、おめでとうございますと、言わねばなりません」
「……っ! そ、そんな事、わざわざ言いに来たのっ!?」
どろどろとした思いに飲み込まれてしまいそうで、椿は脇息を強く握り締めた。
「た、隆文なんか……っ」
嫌いよ、と言いかけたのを、遮るように隆文は口を開いた。
「しかし私は……身をわきまえない事ながら、この度のことを遺憾に思っているのです。……姫にはまだ、早すぎると」
「……!」
「……こうしてお目通りが叶うのも、最後です。姫、お顔を……見せては頂けませんか?」
「……」
顔を上げて目が合うと、隆文はそのままじっと椿を見つめた。真剣な顔で見つめられ、椿は逸らす事も出来ずに戸惑った。
「姫……。添い伏しの役目は、お嫌ですか?」
「……い、嫌よ……」
「時平親王の事、私は良く存じております。とても利発で明るい、良い方です……姫ともきっと気が合うでしょう。……それでも」
椿はかっと頬を染めた。
「止めてっ! そんな事、聞きたくない……っ」
こんな風に、慰められたくなかった。涙の溜まった目で隆文を睨みつけたが、隆文は視線も逸らさずただじっと椿を見つめている。
「……」
「……姫」
しばらくの沈黙の後、隆文が口を開いた。
「では……このお話、流してしまいましょう」
「……え」
「親王と主上(おかみ)に、働きかけます。必ず流して見せましょう」
「……な、に……?」
隆文の表情は変わらない。椿には、隆文の言っていることがすぐに理解出来なかった。
「私は役目柄、主上(おかみ)の側近くに侍ってお話をする事も出来るのです」
確かに蔵人は、主上の側近くで政務の手伝いから食膳の準備まで事細かな仕事を請け負っている。会話する事くらい、出来るだろう。……しかし。
「……でも、そんな……ち、父上だって……」
「大臣は既に少々後悔していらっしゃる」
「そんな、事……」
椿は自分の声が震え出すのを感じた。
「出来る、の……?」
隆文はふっと笑い、膝を進めて椿の前まで来ると、そっと椿の両の手を握った。
「出来ますよ、姫」
大きな手の平が優しく椿の手を包み込む。
「ほ、本当に……?」
「やります」
優しい笑顔が目の前にあった。我慢していたものが一気に噴出して椿の頬を伝った。
「た、隆文……」
「大丈夫です、姫。……お化粧が崩れますよ、お泣きにならないで。今夜の裳着まで取り止めには出来ませんから」
「……っ」
泣かないでと言われて、余計に止まらなくなる。椿は隆文に縋りつくようにして、声を殺して泣いた。
「……姫、笑ってください。……たとえご結婚なさらなくても、裳着が済んでしまえば、こうして私が姫のお顔を拝見する事は出来ないのですから」
椿は何度もうなずいて涙をぬぐい、精一杯、笑顔を作った。
「……隆文」
泣き笑いの顔がおかしかったのか、隆文はくすくすと笑って椿の目元を指でぬぐった。
「姫は、本当にお可愛らしいですね。……最後に拝見できて、良かった」
それが隆文と顔を合わせて交わした最後の言葉。
その日の裳着は滞りなく執り行われ、その数日後、椿の元には親王への添い伏しの役目が無くなったと知らせがあった。まだ若すぎる姫君を得るのは心苦しいとの、親王よりのお申し出との事だった。主上もそれをお認めになり、父右大臣は少し残念がっていたようだが、やはり椿の年齢が引っかかっていたようで、安堵したようだった。
……そして月日は流れる。
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