九.



 椿十五歳の春。うららかな日和の昼下がり。

「姫さま、御文が届きましたわ」

 女房・安芸(あき)の手には藤の枝に巻かれた文が乗せられていた。

「誰から? ……また左兵衛佐(さひょうえのすけ)かしら……」

「え? あ……はい」

「そう……仕舞っておいて」

 椿はそっけなく答えて、扇で文箱を指した。

「えっ……でも、ご覧には……」

「興味ないもの」

 十歳という若さで裳着を迎えてから早五年。親王の添い伏し話も流れて、椿はいまだ独身でいる。右大臣の三の姫という身分に加え、琴にも歌にも優れ、見目も麗しい才色兼備だと言う噂は都中に広まっていた。求婚者は後を絶たず、裳着を迎えてから後三年ほどは、毎日山のような文が届いていた。

 しかしいつまで経っても誰に対しても色よい返事を返さないので、今ではだいぶ文を送って寄こす者も減っている。左兵衛佐はいまだに文を送り続けている数少ない公達の一人なのである。

「いい加減、諦めれば良いのに……」

 父右大臣には、誰にも返事を返すなと常々言われている。父がどのような考えを持っているのかは知らないが、とにかく椿は右大臣秘蔵の姫なのだ。

「まぁ、でもあの……この御文は……」

「なぁに?」

「あの……高成(たかなり)さまが届けられたのです……」

「え……兄上が?」

 右馬の頭(うまのかみ)の兄・高成と椿は年子の兄妹である。同じ邸内に住まってはいるが、お互いめったに顔を合わす事はない。それでもまだ裳着前の幼い頃は何度か一緒に遊んだこともあり、兄の親友で右大臣邸に良く出入りしていた今の左兵衛佐とも顔を合わせたことは数回あった。当時からほとんど興味も無かったし、今はどのように成長しているか全く知らないのだけれど。

「……無視したら不味いかしら……」

「はぁ……お返事は、高成さまにお届けするようにと言われてまして……」

「困ったわね。父上にお返事はするなと言われているのよ。兄上にもそう伝え……」

 言いかけると、庇に人の気配がした。

「そこをなんとか、頼むよ、椿。父上には内緒でさ」

「……兄上……」

 見れば、御簾の向こう側にひょろりとした狩衣姿の兄が立っていた。このように突然たずねるなど、兄と言えども非常識だ。しかし兄は重々承知でやっているのだろう、茶目っ気たっぷりの笑顔で片手を顔の前に立てている。椿は深いため息をついた。

「……その気も無いのに、気を持たせるような事、出来ませんわ」

 しぶしぶ御簾の近くにまでいざり寄って座り、そっけなく椿は答えた。兄は御簾の前にちょこんと座って小首をかしげ、頭を掻くような仕草をした。兄の仕草はいつも子供っぽい。線の細い女の子のような顔立ちも手伝って、兄というより妹のような気が椿はしている。

「だってさ、左兵衛佐は、元服してからもうずっと……えーっと、もう三年か、三年も椿に文を送り続けてるんだよ。一回も返事を返してやらないなんて、可哀相じゃないか」

「ですから、その気も無いのに誤解させるような態度をするほうがよほど酷いと思うんですけれど」

「もういいじゃないか、さすがに左兵衛佐だって今回ばかりは諦めるって言ってるよ。最後に、恋の思い出にさ、一度くらい返事を返してやったって……」

「? 兄上?」

「ん? なに?」

「何が今回ばかりは、なんですの?」

「へ? だってお前、今度こそ春宮に入内するんじゃないの?」

「……」

 椿は扇を取り落とした。

「……聞いてないわ……っ」

「え? そうなの? まだ父上話してなかったんだ……。や、でもほら、当然といえば当然じゃないか。もともと時平さまには添い伏しする話もあったんだし。あの時はまだ十歳だからって気遣ってくれたんだろうけど、今度は何の問題もないしね」

 兄はにこにこと機嫌よさそうに笑っている。

 この春は、長く帝位についていた先の帝がついに譲位なさり、御世代わりがあった。新帝には当然、春宮が即位され、そして新春宮には新帝の弟宮である時平親王が立たれたのである。通常、春宮には帝の皇子が立つものであるが、新帝には皇女ばかりで皇子が無かったのだ。

「でも、びっくりしたよ。まさかあの時平さまが春宮にお立ちになるなんてねー」

「と、時平親王は、つい先日ご結婚されたばかりではなかったかしら」

「うん、そうなんだよねー。父上は怒ってたよ。春宮になるのが分かっていたら、むざむざと結婚させたりしなかった、椿の添い伏しの話を流すことも無かったって……っと、こういう話されるのは、嫌かな……?」

 しまったというように兄は口をつぐむ。一応、椿を気遣っているようだった。しかし今更政略結婚の話を聞かされたくらいで嫌悪など起きない。

「いいえ、大丈夫よ。……父上は、あたくしを春宮へ入内させるおつもりなのね……?」

「う、うん。……嫌なの、椿?」

「……いいえ、大丈夫よ……。……そう……」

 椿は落とした扇を拾い上げて、ぱちりと開いた。そしてまたぱちりと閉じる。春宮に入内するのは、幼い頃からの夢だったのだ。何も嫌なことなど無い。

(……大丈夫……)

 しかし心の隅がどこか暗く沈んで行くのがどうしてなのか、椿は自分でも理解できなかった。

「……あの、それでさぁ、……その、最後の思い出に、左兵衛佐に……」

「あたくし、なんだか気分がすぐれないわ」

 椿はすっと立ち上がると御簾の前から離れ部屋の奥へ移動した。

「えっ、あの……」

「申し訳ないけど、御文は書けません。左兵衛佐さまによろしく」

「えぇーっ、約束しちゃったんだよー、頼むよ、椿ぃー」

 御簾の前でまだ兄は喚いていたが、もう椿は無視して几帳の陰に身を潜めた。



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