十一.
源大納言の所有する宇治の別荘にその文が届けられたのは、夏の盛りの蒸し暑い夕暮れのことだった。
この夏の間、避暑にやって来ていた届け先の姫君は、薄衣(うすごろも)を身に纏い、簀子縁(すのこえん:縁側)に程近い庇(ひさし)の間に転がって、昼寝していたところである。
「ゆゆ、百合っ! お前はまたそんな格好でこんな端近に寄って、恥ずかしいとは思わないのかっ!」
「んー?」
百合と呼ばれた姫君は、目をこすりながら起き上がり……そしてぎょっとした。
「ち、父上さまっ!? なな、なんでここに……」
そこには京の都に居るはずの父・源大納言その人が立っていたのである。
「いいからまずは奥へ行きなさい! そんな姿が人目にさらされたらどうするのだ!」
慌てて飛び起きてばたばたと奥へ引っ込む。
「だってだって、こんな山奥の山荘ですもの、誰も見る人なんて……っ」
「口答えをするなっ!」
父はどかどかと百合の方に踏み込んで来たので、百合は慌てて口をつぐんで、居住まいを正した。
(ど、どうしたのかしら、父上様は……)
普段はここまで感情的になったりすることの無い父である。どちらかといえば大人しくて控えめな人で、いくら百合が姫君らしくない振る舞いをしても、多少の小言を言うくらいで、怒鳴ったりはしなかったのに……。
父は百合の前まで来て腰を降ろすと、はぁーっと深いため息をついた。
「あ、あの……父上様、ど、どうかされましたの?」
おずおずと尋ねると、父はじっと百合を見つめ、それから懐に手を差し入れて何やら文を取り出した。
「お前宛だ。……見てみなさい」
「……?」
極上質の料紙を使った御文。これが父の態度がおかしい原因なのかしら、といぶかしみながら開いてみる、と。
そこには、見慣れぬ文字で書かれた歌が、一首。
――玉かぎる ほのかに見えて 別れなばもとなや恋ひむ 逢ふ時までは
(ほんの僅かに出会い別れた貴女が、恋しくて、たまりません。また逢える時までは……)
百合はごくりとつばを飲み込んだ。胸元にさぁっと冷や汗が浮かぶのが分かる。
(こ、これって……!)
思い当たることなど一つしかなかった。数日前、百合はおかしな公達(きんだち)と出会ったのだ。この山荘を抜け出して、一人川遊びをしていた時に……!
「心当たりは……あるかね」
「……」
答えられない。あんな姿で知らない公達に会って遊んだなどと、どの面下げて言ったらよいのか。
「あるのか! はっきりしなさい! お、お前は婚約者も居る身であったというのに……、なんという恥知らずな……っ」
ではきっとあの公達は、父にばらしてしまったのだ。
(あいつ……っ!)
川辺に佇んでいたその公達の姿をはじめて目にしたとき、なんて爽やかな美丈夫なんだろう、と百合は一瞬その姿に見とれた。その後二人で川に入って遊んだのも楽しくて面白くて、独身時代の最後に誰にも秘密の素敵な思い出が出来たわ、などとのんきに喜んでいたのだ。
しかしその公達は去り際になって、態度を豹変させた。好きになったからまた会おう、などと言い出し、あろうことか百合の唇を無理やりに奪ったのだ……!
「こんなの、知りませんわ! 知りません!」
何を言っても不利にしかならないなら、もうしらを切るしかない。百合は文を投げ捨てるようにして父のほうへ放った。すると。
「百合っ!」
耳にしたことの無い声量で怒鳴られた。
「な、何……」
「恐れ多くも春宮御製の文に、何をするのだ!」
「……? ……とうぐう……ぎょせい……?」
何を言われたのか分からず、おうむ返しに呟く。呟きながらようやく、理解した。
(春宮、御製……っ!? ……じゃああの公達は……っ)
『貴女が誰と婚約していようと、俺はもう決めたんだ。だから近いうちにきっとまた、会うよ』
自信に満ちた様子で言っていた、その姿を思い出す。
「春宮ですって……?」
目の前が真っ暗になるという事態を、百合は初めて経験した。
<もどる|もくじ|すすむ>