十七.


(そんな……っ!)

 あの時……結婚が決まったと言ったとき、峰平は嬉しそうに、はにかんだように笑っていた。

 そして宇治で、幸孝が運命の姫君を見つけたと言って報告し、それが源大納言の二の姫だと告げたとき……。そうだ、峰平は酷く悲しげな……悲しげな顔をしていた……。

「そんな……」

 あの悲しげな様子は、桐壺女御に同情しているものとばかり思っていたのに。

「……どうした、幸孝。そんなに落ち込むな。美しい姫なら、他にもたくさん居るだろう。峰平ならば、身分からいっても器量からいってもそれこそ選り取り見取りだ。お前がそんなに気に病むことも無い」

「……しかしっ」

 幸孝はたまらずに立ち上がった。

「……失礼します」

 清涼殿を飛び出して、直ぐに梨壺へ戻ると、式部卿の宮邸の峰平の元へ使いを出した。

 峰平は親友だ。……なんでも話せる親友のはずだった。

(なんで言ってくれなかったんだ……!)

 いつも優しくて控えめな性格の峰平。しかしその峰平が『僕には力になれません』と冷たく幸孝に告げたとき、酷く傷ついた顔をしていた……。

(他の姫で良いならあんな顔をするはずが無い、きっと峰平はあの姫に恋していたんだ……!)

 自分の事ばかり考えていたことが、急に恥ずかしくなる。昔からそうだった、一つ年下の峰平のほうがずっと……大人だ。



 そう、昔からいつも……それは幸孝が春宮だからという訳ではなく、峰平の優しさゆえの事なのだと思う。

 あれはまだ二人が七つか八つの頃……蹴鞠をして遊んでいたときの事。地面に落とさずに何回蹴り上げられるかを、競った事があった。器用な峰平はいつまでも鞠を落とさず、何度やっても峰平のほうが勝ってしまうので、腹が立った幸孝は鞠のせいだと言って怒った。

 峰平が使っている鞠を取り上げて、自分の物にしようとしたのである。

「春宮! 身分をかさに着て他人の物を取り上げるなど、恥ずかしいことですわよ!」

 様子を見ていた母宮にはそう叱責されたが、別に身分をかさに着たつもりなど無かった幸孝は余計に腹が立ち、絶対に返してやらない、と言い張った。

 すると峰平は「いいえ」と言って笑ったのだった。

「いいんです、幸孝様に差し上げますよ。僕は本当は蹴鞠よりも……絵を描いているほうが好きなんです。幸孝様は蹴鞠が大好きだし、そういう方が持っているほうが、きっと鞠も嬉しいでしょう?」

 そう言って、文句の一つもなく、笑顔でそれを差し出したのだ。

 しかし後で聞いた話では、その鞠は峰平が五つの時に亡くなった祖母君が、ちょうどその年五歳になったばかりの峰平に贈られた、いわば形見の品だったと知った。

 それを聞いたときにはさすがに悪いことをした、と幸孝も反省し、すぐに返そうとしたのだが「一度差し上げたんですから、いいんですよ」と言って峰平は結局受け取ろうとはしなかった。

 昔から峰平は……万事に、そんな調子なのだ。



 夕刻になると、ようやく峰平が梨壺にやって来た。

「峰平……」

 峰平はいつものように優美な笑みを浮かべていた。

「どうしたんです、幸孝様。急に呼び出すなんて、……また、悩み事ですか?」

 そうして部屋の中に入り、穏やかな物腰で座った。

「……なぁ、峰平……お前、結婚が決まったって言ってたよな……」

「あぁ、ごめんなさい幸孝様。それが、やっぱりちょっと……その、父宮にももう少し慎重に考えるようにって言われて……取り止めになったんです」

 そう言って、峰平は笑った。

「……っ! お前……っ!」

 幸孝は酷く悲しく……悔しかった。

「嘘をつくなよ! ……俺のせいなんだろう! 相手は源大納言の二の姫だって……俺のせいで取り止めになったんだって……言えばいいじゃないかっ」

 峰平の目がはっと見開かれる。

「……幸孝様……。……どうして……」

「お前……っ、好きだったんだろう、二の姫の事が! だったら何で言わないんだよっ」

「……聞いて、しまったんですね……」

 峰平は目を伏せて、ふぅとため息をついた。

「幸孝様……。いいえ、僕は……そうですね、何度か文は交わしましたけど、それだけですから……好きだったという訳では……」

「だってお前あんな……辛そうな顔してたじゃないか……っ」

「……」

 峰平の表情は固い。

「いつから……? いつから文をやり取りしてたんだ」

 再び峰平はため息をついた。

「もう隠しても……仕方ないですね。一年ほど前から、折りにふれて。求婚として、色よい返事をもらえたのは、三月前のことです」

 それは一般的な貴族の、恋愛の形ではないか。

 源大納言の姫君は、姉妹揃って美しいと評判である。幸孝が、桐壺の事をこの峰平に相談するとき、泣いてばかりのつまらない女だが、美しい姫君だと……そう告げていた。峰平はいつも桐壺に同情的で……それに『おっとりして、優しい姫が良い』とも言っていた。やさしい峰平ならば、そんな風に捉えていても仕方が無い。その妹の姫君に懸想するのも、仕方の無いことではないか……。

「峰平……」

「……そんなに、お気になさらないで下さい、ね」

 向けられた笑顔が、痛々しかった。

「ごめん峰平……。俺……少し、考えるよ」

「え?」

「入内の話は、延期……いや……一旦、白紙にするから」

「そ、それはっ。幸孝様!」

「少し考えたいんだ……。もういいぞ、さがって」

「幸孝様、そんな風に考えずとも」

「いいんだ、さがれよっ」

 つい感情的に、怒鳴ってしまった。

「……っ」

 何か言いかけていた峰平は口を閉ざし、また辛そうな顔をして、一礼すると、さがっていった。

 ため息が、漏れた。



<もどる|もくじ|すすむ>