十九.


 直ぐにも梨壺を飛び出して行きたかったが、この梨壺に帝である父を放っぽり出して行くわけにはいかない。父帝は幸孝が困るのを面白がっているのかのようなそぶりで、なかなか清涼殿に帰ってくれなかった。



 ようやく解放されて梨壺を飛び出すと、久しぶりの桐壺へ向かう。

(なんで……なんで後宮に……!?)

 本当に、姉である甘菜を訪ねてきただけなのか……それとも。

(俺に……逢いに……?)

 ほのかな期待がこみ上げる。

 しかしそれは望んではいけないことだ、と幸孝は首を振った。自分はもう二の姫の入内は諦めて、峰平に譲ったのだから。それならば会ってはいけないのではないかとも思ったが、直ぐ側にまで来ていると聞いて、ひと目も見ずに居る事など出来るだろうか。

 渡殿を渡り、桐壺の殿舎に足を踏み入れたとき。

 目の前に、女が立ちふさがった。

「わっ、なっ何だ!」

 慌てて立ち止まると、女は顔を隠した扇をすぅっと半分下にずらした。

「あっ」

 覗いたのは甘菜のそれとそっくり同じ、まつげの長い黒目がちの大きな瞳。しかしその瞳は甘菜とは全く違う……燃えるような光を帯びた、生気を宿した瞳だった。

「……に、二の」

 姫、と言いかけると、強い力で袖を引っ張られた。

「来て!」

「……っ」

 ひっぱられるままに近くの塗篭(ぬりごめ:物置)に引き入れられ、ぱたんっと姫が後ろ手に妻戸をひき閉じると、一瞬の静寂があった。

 顔を隠していた扇が足元に落ちて、二の姫が真っ直ぐにこちらを見上げてくる。

 その瞳には、ぎろりと音がしそうなほど険が篭っていて、幸孝はたじろいだ。

「……二の姫……。あの……」

「……ごきげんよう、春宮」

 ぴりぴりと空気が痛い。

 抱いていた甘い期待は砕かれて、幸孝は冷や汗を流した。

(……お、怒ってる……?)

「どういうつもりよ」

「……え」

「好きだとか何だとか言って、私をからかってたの!?」

 姫の怒声に、幸孝は一歩後ずさった。



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