二十一.
「なんだ……っ!?」
「姉上の……母屋のほうだわっ!」
百合が扇を拾い上げ、幸孝は妻戸を押し開いて、二人、慌てて塗篭を飛び出した。不安げな顔でざわざわと集まりはじめる女官達の間を擦り抜けて、甘菜の元へ向かう。
(なんだっていうんだ……?)
昼日中に、後宮であんな悲鳴が上がるなど、いまだかつて聞いたことがない。
桐壺の母屋にたどり着くと、真っ青な顔をした女房が数人、泣きながら几帳の奥……甘菜の周りに集まっているようだった。
「あ……っ、春宮……。二の姫様……っ」
女房はすべて甘菜付きの者たちだ。何人かは青白い顔をして、気を失っている者もいる。
「どうしたっ?」
訪ねると、一番甘菜に近しい女房の少納言がぼろぼろと涙を零しながら手をついた。
「も……申し訳ございません……っ、申し訳ございません、春宮。このところずっと、女御様はお悩みだったのです……なのに、ほ、ほんの一時、目を離して……っ。その、隙に……」
嗚咽交じりにそういって、突っ伏してしまった。
「!? なんだってんだよっ」
幸孝は押しとどめようとする女房達を振り切って、几帳の裏側に回り、そして
「……っ」
信じられない光景を、見た。
ついて来ようとする百合を振り返って、
「来るな!」
と叫ぶ。しかし、遅かった。百合もその光景を見てしまった。
細く白い首筋と顔……それが真っ赤な液体にまみれ、床を這う黒髪がその液体を吸い込んでいる。女房が必死に首元を布で抑えて止めようとしているが、その白い布は恐ろしいほど赤い色に染まっていて……。
「あ、姉上っ!」
百合が叫んで駆け寄り、その白い手を握った。
気丈にも甘菜の首元を布で押さえている女房が、春宮を見上げて言った。
「お下がりくださいませ、春宮。血の穢れに障りますわっ。いま、いま直ぐに薬殿(くすどの:医師の詰め所)から侍医(じい)が参りますから……っ」
薬殿とこの桐壺は、内裏でも正反対の位置にある。幸孝は眩暈がした。
「か、貸せっ」
幸孝は女房から布を取り上げて、自らがその首筋を押さえた。
むせ返るような血の臭いに、気が、遠くなりそうだ。
甘菜の手元には、血塗れた釵子(さいし:かんざし)が転がっている。
「……甘菜……」
侍医達が駆けつけてくるまでの一時が、永遠のように感じられた……。
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