二十二.


 幸いにも見た目ほど出血は多くなく、甘菜の命に別状は無かった。そしてその後すぐに、騒ぎを知った帝によって、この件については箝口令がしかれた。



 ようやく医師も立ち去って、静かになった甘菜の枕辺で、

「……ごめん、ごめんな……」

 幸孝は何度もそう呟いた。まだ意識の戻らない甘菜の、その細い手を握り締め、首に巻かれた痛々しい白い当て布をじっと見つめる。

 甘菜は自分で自分の首筋を、切りつけたのだ。幸いにも傷は浅く、切り口が急所に届かなかったから良かったものの、もしも、あと少しずれていれば……。幸孝はぞっとした。

(……こんなに、思いつめてたなんて)

 きっとこの人をここまで追い詰めたのは……自分に違いないのだ。

 ただ泣くだけの女とさげすんで、寵の無い妃と不名誉な噂にさらされているのを知っていても、何の手も差し伸べず、顧みもしなかった。

 愛らしかった小さな白い輪郭が、今見れば透けそうなほど青白く、頬もこけていた。もともとが儚げな、壊れそうな人だったのに……。

「……ほんとに、ごめん」

 申し訳なさに、涙がこぼれる。

 百合は幸孝の後ろに控えて、ただ黙ってその様子を見つめていた。

 ……と、

「……う」

 甘菜が微かに身動きし、僅かに目を開いた。

「甘菜っ?」

 握った手に力が篭る。

「しっかりしろ、甘菜」

 目が会った、瞬間。

 ひっ、と甘菜は息を呑んだ。酷く驚愕した……怯えた、表情。

「……あ、ああ……」

「……甘菜……っ?」

「……とう、ぐう……。……いや……許し」

 甘菜の瞳から、ぼろりと大粒の涙がこぼれる。

 愕然として、その手を離した。

「……っ」

 甘菜付きの女房・少納言が、おずおずと声をかけてくる。

「あの……春宮。梨壺へお戻りになって、どうか、お召しかえを。ここは私と二の姫様がついておりますから……」

「……あ、あぁ……」

 言われてみてはじめて、自分の着ている直衣が血塗れて茶色に変色しているのに気づいた。

「そ、そうだな……じゃあここは、……頼む」

 言い残して、梨壺へ向かった。



(あんなに、あんなに俺に怯えて……)

 幸孝は改めて、自分達の間に出来た溝の深さを知った。

 もともと、あの姫は最初から、自分に怯えているようだった。しかしここ最近は……と言っても最後に桐壺を訪れたのはもう二月も前になるが……始めのころのように泣き続けるという事は無くなっていた。少しは慣れてくれたものと、そう思っていたのに……。

「……はぁ……」

(百合の入内は……しばらく、……後に……)

 妹姫が入内するとなれば、それはまた甘菜の心情を傷つけるかもしれない。自分に対する愛情などは無いだろうが、それでも妹と並んで寵を競わされるという立場に置かれるのだ。

(もう少し甘菜が回復して、落ち着いてから……)

 その間、自分も出来るだけ桐壺に通って、これまでのわだかまりを少しでも無くせるよう、努力しなければいけない。不名誉な噂も無くして、円満にやっていけるように……。

「……」

 しかしそれは途方も無く遠く、難しい作業に思えた。あれほどまでに怯えて……思いつめて。深く抉られた溝を、今更埋めることなど、出来るのだろうか……。甘菜が回復して、落ち着いて、百合を迎えられるようになるまで……一体、どれだけかかるのだろう。

 足元から暗い闇に沈んでいくような心地がして、幸孝の足取りは重かった。



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