二十五.
「父上様の事……あなたはどう思っていて?」
頬を伝う涙もそのままに、甘菜は問いかけてきた。
「え、ち、父上様……? あの……どうって……特にどうってことも……優しい、控えめな人だと……」
「……そう、でしょうね……」
唐突に、こんなときに……なぜ父の話などをするのか。
「私にはとても……とても、怖い人だったの」
「え……っ」
怖いという言葉と、あの父が結びつかない。そりゃあ、突飛な事をすれば小言を貰ったり叱られたりする事もたまにはあったが、怖いなどと思ったことは、一度も無かった。
「西の対ではね……酔うと、よく……父上様は母様に手をあげていたの。……信じられないかも、しれないけど……」
「え、えぇ……っ?」
百合の住まっている東北の対からは、西の対の様子はほとんど分からない。しかし父が女性に手をあげるなどと、想像もつかなかった。
「あなたの母は……宮筋の姫ですもの。きっと……だから、そんな事は無かったんでしょうね」
「そんな……馬鹿な」
確かに百合の母は先帝の親王の娘であり、立派な宮筋の姫である。しかし甘菜の母とて、今は隠居されてはいるがその父は近衛の大将まで勤めた人で、身分としては百合の母には劣っても、決しておろそかにして良い人のはずがない。
「父上様は……ご機嫌が悪いと、母様だけじゃなくて……、私の事も、蹴ったり、叩いたりしたわ……」
「……っ」
信じ、られない。
「……それで……私いつも殿方が恐ろしくて……総領姫だから入内するのは当然だと言われて後宮にあがってからも……殿方全てが、怖かったの。……春宮の、ことも。春宮は……本当はお優しかったのに……私、それが分かっていたのに……殿方の声を聴くだけで、父上様の顔が浮かんで……。怖くて怖くて……きっと、きっととても……春宮は、嫌な思いをしていたと思うわ……」
「……姉上……!」
「あ、あなたのように……話せたらと思ったわ……。いつも、怖がらないで話せたらと思うのに……怖くて声も身体も……動かなくなるの……」
「……っ」
愕然と、した。
どうして同じ顔に生まれついた姉妹の二人が、こんなにも隔たっているのだろう。
百合は父が暴力を振るうなどと、まだ信じられない気持ちが大きい。しかし姉のこの様子はとても、嘘をついているようになど見えなかった。
では姉は春宮の前で、ほとんど話すこともままならずに過ごしてきたと言うのだろうか。
「でもね……百合。私……この後宮で……はじめて」
「甘菜様!」
唐突に少納言が、姉の言葉を遮るように小さく叫んだ。……それは、悲鳴のようだった。
姉は視線を一瞬だけ少納言の方へ向けたが、そのまま……続けた。
「……はじめて殿方を、怖くないと、思えたの。そう……思える人に会ったの……」
少納言はすばやく甘菜の枕辺に来て、労わるように髪を整えながら言った。
「甘菜様。あまり話されては、お身体に障りますわ。……まだ傷が、開くやもしれません。……百合様も。もう夜も更けました。ご用意されたお局に、お戻りを……」
「で、でも少納言」
「さあ、お早く」
急きたてられるように席を立たされる。確かに姉の顔色は酷く青くて、額には脂汗ともつかない汗が浮かんでいた。
確かにこれ以上話をさせるのは、良くないが……しかし。
(何を、言おうとしたの……?)
立ち去りかけたところで振り返ると、姉が最後に、呟いた。
「ごめんなさい……百合……」
酷く胸が、騒いだ。
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