二十八.
「……陰明門だ」
陰明門(おんめいもん:内裏の西門)は、右衛門府の陣(詰め所)の内側の門であり、右衛門佐である峰平ならば、顔が利く門だ。女連れで抜け出すことも、出来るかもしれない。
直ぐに走り出そうとして、百合がついてくるのに気づいた。
「百合、貴女はここに残ってくれ!」
「嫌!」
「……ここに、誰も居ないわけにはいかない、いざとなれば貴女が甘菜の振りをして……」
「嫌よっ! 行くんなら早く行きましょうっ! 私、道が分からないんだから、早くっ」
絶対に譲りそうにもない、強いまなざし。ここで百合を説得するような余裕は無かった。
(……ほんとに、気が強い)
諦めて一緒に、走り出した。
階(きざはし)を降り、後宮に立ち並ぶ殿舎の合間を擦り抜けて、内裏の西を目指す。警護の目を盗んで後宮を抜けるのは、至難の業だ。
月は下弦の弱い明かりで辺りを照らす。ひと目を避けるには良いが、探すとなると、また至難だ。
西門を目指す途中、弘徽殿の近くを擦り抜けようとしたときに、人のうめき声がした。
「……どこだ」
足を止めると、百合も辺りを見回し、幸孝の袖を引いた。
「こっち……」
弘徽殿の、床板の下だ。ためらいもせず百合はそこへ潜り込み、幸孝も後に続いた。
「あ……」
すぐに百合が止まって幸孝が見ると、そこには。
ぎらりと白く光る、刃。
足元に倒れ伏した女。
小太刀を手に、身構える男の姿があった。
「あ、姉上……っ?」
女の側へ寄ろうとする百合を、しかし男が制した。
「動くな!」
男が小太刀を構える。
「み、峰平……」
「……幸孝……様……!?」
峰平は小太刀を握ったまま、幸孝を凝視した。
「……なぜ」
そう言ってすぐに、苦しげな声を上げた。
「……よく、気がつかれましたね……」
峰平は肩を落とし、深い息を吐き出した。
「……せめて、この方だけでも逃がそうと思ったのですが……」
峰平は、気を失っている甘菜の首筋にそっと手を当てた。
「ここで、この方の傷が開いてしまって」
自嘲するように笑うと、その首元を愛おしげに撫でる。
「こんな……ご自分の血を見ただけで気を失ってしまうような方がどうして……おひとりで命を断とうなどと考えたのか……。……馬鹿な、方です。こんな、浅い傷で死ねるはずも無いというのに……」
その手の動きに合わせて、血の臭いが漂ってくるような気がした。
「と、ともかくその小太刀をしまえ峰平、まずは桐壺に戻って」
側へ寄ろうとすると、
「いいえ!」
峰平はすっと小太刀を前に掲げ、威嚇するようにこちらを睨みすえた。
「……甘菜様のお腹の子は、僕の子です……」
「……っ」
普段の温厚な姿からは想像もつかない低く座った声に、気圧されて息を呑む。
「こんな事は許されない……。僕達には、逃げるか死ぬか、二つに一つです……。叶うなら……母子だけでもと、思ったのですが」
「ば、馬鹿を言うな峰平っ。お、俺は表沙汰にする気はないっ、上手く隠せば」
「隠すなど……っ。恐れ多くも春宮の皇子を偽るなどと、甘菜様には……っ、僕にも、この罪の重さには耐えられません……っ」
峰平はふっとうな垂れるように頭を下げた。
「幸孝様をずっと裏切っていた事……。本当に、心から、申し訳ないと思っています……。この方を、こんな不幸にしてしまった事も……僕は……本当に……」
太刀を持つ手が、小刻みに震えている。
「……峰」
声を、何か言葉をかけなければと幸孝が口を開きかけたとき、再び峰平が厳しい表情で顔をあげた。
「僕達はここで、罪の子もろとも、果てます。……どうか、お許しを……!」
峰平は小太刀を甘菜の首元へ突きつけた。そして高く振り上げる。
「や、止めろっ」
「姉上っ!」
止めようと伸ばした手の横を、百合の身体が擦り抜けて行く。
その刃は姉をかばった百合を襲い……
「……っ!」
血飛沫が、あがる。
声も出なかった。
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