三十一.
なんとか桐壺に戻ると、少納言が呆然と座り込んで、涙を流していた。
こちらの姿を見つけるなり、「ああ……っ」と声を上げて走りよってくる。
「甘菜さま……っ」
幸孝は寝台に甘菜を降ろして、はぁはぁと荒い息をついた。そして振り返って百合の姿を確かめる。
真っ青な顔をした百合は今にも倒れてしまいそうで、何とか峰平が支えていた。
「百合、しっかりしろ……っ」
倒れこむように床に座った百合に、慌てて駆け寄る。
「うん……大丈夫……」
額には脂汗が浮いている。
「直ぐに薬師(くすし:医者)を……いや……」
薬師をよんだら、この異常な事態を何と説明すればよいのか。それで無くとも今日はこの桐壺で変異があったばかりだ。今また百合のこの太刀傷を、何と説明すれば……。
「甘菜様の塗り薬があります、これを……っ」
「! よし」
少納言が持ってきた薬を受け取って、百合の小袖を肩から脱がした。左腕の上腕に、ざっくりと三寸(約九センチ)ほどの傷。
薬を塗ると、痛むのか百合は辛そうにうめいた。何とか塗り終えて白い当て布を当て、しばらくすると、ようやく血は止まったようだった。
甘菜のほうも少納言と峰平で手当てをしてやり、何とかひと心地つく。
(……なんて夜だ……)
ため息をついて汗をぬぐい、呆然としていると、峰平が無言で立ち上がって桐壺を出て行こうとした。
「峰平!」
慌てて呼び止めると、峰平は真っ白い顔で振り向いた。
「……幸孝様……お別れです」
そのか細い声は、微かに震えていた。
「お前っ……まだ」
駆け寄って胸倉を掴む。
「まだ自害するとか言うんじゃないだろうなっ!」
峰平は目を伏せた。
「……僕達の罪は、消えません。……でもこうして甘菜様は貴方に助けられた……助けられてしまった……」
伏せていた目を開くと、真っ直ぐに幸孝を見る。
「だから、だからお願いです幸孝様。……無理を承知で、親友と呼んでくださった幸孝様にお願いします。……甘菜様と、生まれてくる子の事をどうか……お守りください……っ」
真摯なまなざしに、息を呑んだ。
「……峰平、お前……っ、お前はどうする気なんだよっ!」
「僕は……。こんな罪を犯して、のうのうと生きられるはずが」
かっと頭に血がのぼる。峰平が言い終わらないうちに、すでに殴られて紫に腫れ上がっていた頬を、思い切り平手打ちした。
「……っ」
「ふざけんなよっ、死ぬなんて許さない! 俺はお前に生きてて欲しいんだっ、甘菜も子供守るし……お前の事も守るっ! 死んだりしたら絶対に一生許さないからなっ!」
涙が出た。悔しいのか悲しいのかもう分からない。ぼろぼろ落ちて、止まらなかった。
「……幸孝、様……、しかし」
「生きるって言え! お前が死んだりしたら、俺も甘菜も子供も、一生不幸だっ!」
肩を掴んで峰平を睨んだが、もう涙で前が見えない。峰平の肩に顔をうずめるようにして、嗚咽した。
「……す、少しは……った、頼れよ……っ。いつもそうだお前は……っ、勝手に、ひ、ひとりで良い格好して……っ。……っく、……おっ、俺は春宮だぞ……っ、つ、罪なんか、揉み消してやる……っ。お、俺にも、少しは……譲らせろ……っ!」
幸孝の嗚咽だけが、静まり返った桐壺に響く。
少納言も百合も、息を潜めてその様子を見ていた。
長い、沈黙ののち。
「……幸孝様……僕は……」
顔をあげると、峰平も泣いていた。ぼろぼろと泣いて、震えていた。
「……生きます……。幸孝様に……おすがりいたします……っ」
「……!」
「どうか僕を……お救い、ください……」
崩れ落ちるように座り込んだ峰平にしがみついて、幸孝は何度も何度もうなずいた。
「……ああ、峰平。任せろ……っ」
波乱の一日が、終わる……。
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