三十二.


 あの長かった一日から、もう二日が過ぎようとしていた。

「姉上……起きても良いの?」

「……ええ」

 甘菜の首の傷はまだ癒えてはいないが、続いていた微熱もなんとか下がり、今は粥を飲み込めるまでに回復していた。

 一時はお腹の子も流産するのではないかと危ぶまれたが、何とか持ち直して無事だった。

「良かった……」

 腹の子が誰の子であれ、やはり一つの命が失われるなど、あってはならないことだ。

 甘菜は身を起こして脇息に持たれ、百合と見つめ合った。

「百合……迷惑をかけて、ごめんね……」

「何言ってるのよっ、……こっちこそ……今まで姉上の事を全然分かってなくって……ごめんなさい」

「……いいえ」

 百合は姉の枕辺に、春宮からおくられた花を活けた。



 右衛門佐・峰平の君は、二年前、甘菜が入内した直後から、頻繁に桐壺を訪れるようになったらしい。そもそもは春宮から、全く話をしようとしない桐壺女御の相談を受けた峰平君が、女御のご機嫌伺いにやって来たのが始まりだった。

 怯えて話も出来ずにいる女御の様子に気づいた峰平君は、何とか女御の心をほぐそうと、折にふれては花や絵を渡して、根気強く慰めた。

 それもこれも、男全てに怯えている様子の女御がまず峰平君に慣れて、いずれは春宮にも心を開けるようになれば良い、という思惑からはじめたことであったらしい。

 峰平君の行いは功を奏して、時間が経つうちに少しづつ、女御の心は開き始めた。しかしそれは男全てに対してではなく……峰平君だけに、開かれていったのである。

 そしていつの間にか峰平君も、この儚げな女御に、同情以上の感情を持ち始めてしまった。

 峰平君はそれに気づいたとき、離れようと努力もした。姉姫に似ていると噂の妹・百合に求婚し、気持ちをごまかそうともした。

 しかし想いは押し留める事が出来ずついに……このような事になってしまった……というのが、少納言から聞き、姉も認めた真相だった。



「あのね……こんな事を聞いて……、恥知らずだとは思うの、だけど……」

 姉が遠慮がちに言った。

「なあに? 姉上」

「峰平の君は……どうしているの……?」

 不安げに、姉の瞳は揺れていた。

「大丈夫よ、ちゃんと生きてるわ……。今は自宅に篭っているようだけど」

 表立って謹慎処分という訳ではないが、あの腫れた顔では当分内裏には出て来られないのだろう。

「そう……」

 姉の頬が安堵に緩んだ。峰平君の事をとても愛しているのだと分かる、穏やかな微笑み。

「良かった……」

 その姉の表情はとても美しくて……羨ましいとさえ、百合は思った。

「春宮には本当に……、助けてもらって、感謝してるの……。どう言ったらいいか、分からないくらい」

 確かに春宮は良くしてくれた。罪を許すばかりでなく、甘菜の傷の悪化をいぶかしむ侍医達を押さえ込み、桐壺に出入りする女官も最小限に減らして、事が外部に漏れないように心を砕き、姉に対しても相当の気を遣ってくれた。



「あのね、姉上。……お話があるの」

「? なぁに」

「……私、本当は二、三日で家へ帰るつもりだったんだけど……もうちょっと長居したいの。姉上の傷が癒えるまで」

「まあ、それは嬉しいわ」

 姉は声を弾ませる。

「それとね、私……春宮へ入内のお話があったんだけど、それは白紙になったのよ」

「え……っ?」

「やっぱり右衛門佐と……復縁することになったの。父上から……そう、連絡があって」

「……っ」

 姉は見る間に顔を曇らせた。

「そう……」

「……」

「……」

 落ち込んだ様子の姉の手を、百合は握り締めた。



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