三十三.
あの慌しかった日から十日あまり。幸孝は今日、ようやく参内した公達の中に峰平の姿を見つける事が出来た。少しやつれたようには見えるものの、以前と同じように他の公達達と談笑している姿を見て、幸孝は心底ホッとした。
その日の夕暮れ、梨壺の簀子縁に座って夕涼みをしながら、幸孝は我知らず呟いていた。
「良かったな……」
……と、扇で顔を隠した姫君がこちらへ向かって歩いてくるのに気づいた。こんな風に先触れもなしに梨壺を訪れる姫君など、そうそう居ない。
「……百合」
「ごきげんよう、春宮」
簀子縁で立ち話するわけにも行かないのでとりあえず中へ引き入れる。すると、百合は手を突いて深々と礼をした。
「? どうした?」
「私、今日で家に帰ることになりましたの。なので、ご挨拶を」
「え……? あ、ああ、そうか……」
もともと百合は桐壺のご機嫌伺いという名目で来ていたのだ。突然の騒ぎがあったせいで、甘菜の看病をするという形で留まっていたが、そろそろ甘菜の傷も癒えた事だし、頃合なのかもしれない。
「百合……その、今は桐壺が妊娠していて……こんな時にその妹のお前の入内話を進めるとなると……また、悪い噂が立ちそうなんだ……」
「……」
「……だから、入内は子供が生まれて落ち着いてから……だいぶ、先になるけど……でも、必ず迎えるようにするから……待っててくれるか……?」
「……はい」
百合は扇で口元を隠したまま、目元でにっこりと笑った。
「百合……」
「春宮には……とても感謝しています。……本当に、なんて言ったら良いのか分からないくらい。……ありがとう……」
「え……?」
確かに桐壺の事ではいろいろと世話をした様な気がするが、百合にどれの事を言われたのかいまいちピンとこずに、首をかしげる。
百合はもう一度手を突いて、深々と礼をした。
「……ごきげんよう」
その日のうちに、百合は実家である源大納言邸に帰って行った。
どうして何もせずに帰してしまったのだろう。しばらく逢えなくなるのだから、せめて抱擁なり接吻なりしておけば良かった、と幸孝は酷く後悔した。
しかし何故かあの時の百合の様子はおかしくて、そういう気分にならなかったのだ。
(……まぁ、いいさ。……いずれ、必ず)
そう思いながら、立ち上がる。
今夜は桐壺を訪ねる予定だ。
……これまでのようにぞんざいな扱いはしない。誰の目にも円満に見えるように振舞ってやるのだ。
百合のためにも、峰平のためにも。
そして時折は誰にも分からないように……また、峰平とも会わせてやりたい。
決意も新たに、幸孝は桐壺へ向かった。
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