五.

「なんだよお前、ここまで来て絵なんか描くのか?」

「中宮様との約束なんですよ、せっかく遠出するんだから、新しい絵を持ってくるようにって……」

 宇治の別荘から馬で少し駆けたところに、見晴らしの良い丘がある。山と川と草花と夏の日差しとが絡み合い、見事な風景を生み出していて、絵を描くには最高の場所だった。

「なるほど。じゃあ、俺はもう少し……そうだな、暑いし、川辺のほうまで行って涼んでくる」

 幸孝は馬を降りずに言った。

「幸孝様、あんまり遠くへ行かないでくださいね。大丈夫だとは思いますけど、幸孝様に万一の事でもあったら、この国の一大事ですから」

「大丈夫だって」

「……でもやっぱり、供を呼んで来たほうが良いかな」

 今回の旅は、供人もわずか数人で、泊まる場所も式部卿の宮所有の別荘、ごくお忍びでの旅となった。仰々しい行列などでやって来ては全く気晴らしになどならないのは母宮も承知していて、ほんの数日であれば、と特別に許してくださったのである。

「いいから! 夕刻までには戻る。お前はここにいるんだろ」

 言うと、峰平はうなずいた。

「じゃあ、本当に気をつけてくださいね」

 幸孝は笑って、馬を走らせた。



 山間を流れる小川の近く、獣道に踏み込んだところで、幸孝は馬を止めた。

 川のほうから、人の気配がする。

(女の声……?)

「……舞え 舞え かたつぶり……」

 今様(いまよう:流行り歌)を口ずさむ声だ。美しく通る声に、水の跳ねる涼しげな音。

 馬を木に縛り付けて、声の主の顔を一目見ようと、幸孝は足を速めた。やぶを踏み分けて、たどり着いたその水辺には……

「……真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん……」

 舞を舞う、女がいた。

 小袖を一枚着ただけの着物の裾から伸びる、白く透けそうなすらりとした腿。くるぶしまで水に浸された足が、涼しげに水しぶきを跳ね上げている。

 市女笠に垂らされた衣と合わせて、結わえられた長い黒髪がさらさらと揺れる。日の光を受けてきらめく髪のその隙間から一瞬、白い頬と、赤い唇が覗いた。袖口から伸びる、やはり白くて細い腕が波打つように動いて、声に合わせ、扇を翻す。

「あ……」

 昔見た絵巻物に描かれていた天女が舞っているのではないかと、錯覚した。

「誰!?」

 浅いせせらぎに足を浸したまま、女がこちらを振り返った。



<もどる|もくじ|すすむ>