六.

 その女と幸孝は、互いの姿を呆然と見つめ合った。
 市女笠に垂らされた布で、女の顔は隠されている。そして、結った紐を解けば足元まであるだろう長い髪は、女が貴族か貴族の屋敷に仕える女房であることを示していた。しかしそんな身の上の女が、庶民の女のように小袖一枚の姿で袴も穿かず、あまつさえ川に浸かって歌っているなど、普通では到底ありえない光景だった。

「誰よ……。貴族ね、あなた」

 問われて、幸孝ははっと我に帰った。

「ああ、俺は……」

 名乗ろうとして、しかしこの場でまさか春宮だなどと言えようはずもなく、幸孝は言葉に詰まる。すると、

「いい! 言わないで!」

 女のほうが遮った。

「嫌なところを見られちゃったわ……。私も名乗らないし、ねぇ、この事は誰にも言わないでくれる?」

「え……?」

「何よ、言いふらすの!? 貴族の姫が、こんな姿で外に出て遊んでましたって……! 酷いわ、そんなことされたら私もう、終わりじゃない!」

「いやしかし、俺は貴女が誰か知らないし……」

 女は自分で自分が貴族の姫だとばらしてしまったが、それには気づいていないようだった。

「そんなの、この辺りの山荘でも調べられたらすぐ分かっちゃうわよ……っ。ねぇ、忘れてよ! ねっ。後で私が誰か分かっても、絶対誰にも言わないで!」

「……あ、あぁ……分かった」

「本当!?」

「あぁ」

 言うと、女はぱっと嬉しそうな声を上げた。

「あぁ、良かった!」

「しかし……貴女はこんなところで何をしているんだ? その……そんな姿で」

 幸孝は女が、それも貴族の姫が、白い足を日の光に晒している姿など、初めて目にした。

「何って……。涼んでたのよ。あっついんだもの。貴方はどうしたのよ、なんでこんな山の中をふらふらしてるわけ?」

「いや……」

 そういえば幸孝も、川辺なら涼しいだろうと思ってやってきたのだった。

「俺も……涼みに」

「あら」

 女はぱしゃぱしゃと水音を立てながらこちらへ歩いてきた。

「だったら、ねぇ、貴方もどうせなら水に入ったら? 気持ちいいわよ?」

「えぇっ!?」

「ね、お互い、この事は後で忘れるって事で。いいじゃない、一緒に遊びましょうよ!」

 女はさっと幸孝の手を握って川のほうへ引っ張ろうとした。

「な……っ、ちょ、ちょっと待った!」

 幸孝は慌てて女の手を払った。それから沓(くつ)を脱ぎ、狩衣(かりぎぬ)の裾を膝までたくし上げて、もう一度女の手を掴みなおす。

「……これで良し。川に入るのなんか、初めてだ」

 笑うと、女も楽しげな声をあげた。

「ふふ、それは良かったわ!」


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