八.
「何すんのよっっ!」
どんっと強く胸を押されて、気づいたら幸孝は突き飛ばされて座り込んでいた。
「し、信じられないわっ! こんな間近ではっきり顔を見ようなんて、貴方、ちょっと非常識じゃないの!? 本当に貴族!?」
姫は怒りに震えている。
「もうもう、あんたなんか信じた私が馬鹿だったわ! どうせこの事だって言いふらす気なんでしょう!? い、良いわよっ言いふらせばっ!」
涙交じりの声。
その声は……こんなに大声で叫んだり、怒鳴ったりするような事が無いから気づかなかったが、その声もまた……良く似てはいないだろうか。
「ちょっと何よ、ぼうっとして! 聞いてるの!?」
「姫……」
立ち上がり、もう一度姫に近づく。怯えたように一歩下がったのを、腕を掴んで無理やりに引き寄せた。
「! や、やだ、やめ……っ!」
嫌がるのも構わず、幸孝はもう一度市女笠の布をたくし上げて、姫の顔をあらわにした。
……やはり、似ている。……しかし、あまりに甘菜とは違いすぎる、この姫は……。
……この姫こそが、望んでいた姫君ではないか……
そう思った瞬間、幸孝はほとんど無意識に動いていた。
「だ、だから、止めてって……、ん、んんっ!?」
言いかける言葉を遮るように、幸孝はその唇を、唇で、塞いだ。
「……っ!!」
姫ははじめ抵抗してもがいていたが、しつこく唇を塞いで抱きしめていると、やがて諦めたのか大人しくなった。
「……姫」
ようやく解放すると、姫はキッと真っ直ぐに幸孝を睨みつけた。その瞳はうるうると滴を湛えて、頬は怒りのためか真っ赤に染まっていた。
「さ、最低よっ! 許さないんだからっっ! ち、父上様に言いつけて、あんたなんか……っ」
「源大納言に言って? それで俺をどうするって?」
「!」
姫の瞳が驚愕に見開かれる。やはり図星だ。
……甘菜には、一つ年下の異母妹がいたはずだった。
「……な、なんで、知って……あ、貴方……誰よ」
幸孝はふっと笑った。
「それに、こんな姿で男と水遊びをしてましたなんて、父上様に言えるのかな」
「!」
絶句した姫は頬を赤く染めて、怒りに震えている。
……この姫は、生気に満ちている。
「……ごめん。俺、貴女が好きになった」
「……はぁ?」
「好きになった。……だから、許してくれ」
「な、何を……」
姫は今度は目を見開いて、きょとんと幸孝を見上げてくる。
「……近いうちに、また会おう、姫」
「何を馬鹿なこと言ってるの……? 貴方、おかしいわよ……。普通、貴族が女を好きになったら、まず恋文でも寄越して、それから親に相談して……」
幸孝はぷっと吹き出した。
「あっはっは、それは、こんな出会い方をしていない場合だろう。今更、恋文? まぁいいけどさ、おくっても」
「な、何よ! 要らないわよ、あんたからなんて! それに、それに私、もうすぐ結婚するんだから! そうよ、婚約者がいるんだからっ!」
「……」
「貴方が誰か知らないけど、そこいらの貴族なんかじゃ太刀打ちできないような、高貴な方よ! だから、だか、ら……」
「……」
微笑んだまま幸孝がじっと姫を見つめていると、姫は不安になったのか口を閉ざした。
「貴方……誰よ……」
「姫。貴女が誰と婚約していようと、俺はもう決めたんだ。だから近いうちにきっとまた、会うよ」
「……」
笑顔を向けると、姫はただぽかんとして、幸孝を見上げた。
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